歌姫アンテと謎の花のお話

朝目覚めると、右側の胸に違和感を覚えた。

顔を洗い、寝間着から着替える段階になって、その右乳房を覆うようにして何かが突き出しているのがわかった。
花、だ。正確には蕾の状態だったが。作り物でも、いたずらでもない、たしかにまだ開かぬ本物の蕾が下から根を張っている。
心当たりはなかったが、私は狼狽えなかった。この時代、この場所、知らずにどんな呪いに触れたっておかしくないのだから。なので机の引き出しから、よく切れる鋏を取り出して、それによって謎の花の命を刈り取ろうとした。
「いたいっ」
冷たい刃を当てて滑らせようとすると、蕾はそのように声を上げた。すごく甲高く、弱々しい声だった。流石に私は手を止めた。
「ええ。喋れるの? いったいどうやって……」
「すみません。後生ですから、助けてください。私を無理に切り取ったり、引き剥がそうとしないで」
謎の花は「せめて花開くまでは」とそう続けた。なんでも、7回日が昇った後に花が開きさえすれば、あとは自然に枯れていって、私の体は元に戻るらしいのだ。
7回……1週間くらいだろうか。それまでずっとこのままなのか。
「そんなことを言われてもな、邪魔なんだもの。もし、仕事をしている最中に開いたら目立ってしまうじゃない」
「でも、蕾のまま死ぬのはやるせないんです。未練が残ります。未練が残ったら、ひょっとしたら根が残り続けてしまうかも……」
「それは……困るわね」
この脅しているつもりなのか、なんなのかわからない言葉に私は項垂れた。結局、鋏を元のところにしまい込んで、その謎の花が言うように放っておいてやることにした。
でも、仕事は休んだほうがいいかもしれない。私は酒場で歌う歌手をしていて、きらびやかな、艶やかな装いをする以上、この花のことは隠せなさそうになかった。
この甲高い声で、歌っている最中に横槍を入れられても困る……。しばらく考えた結果、私は地味な私服に着替え、下に降りていって酒場のおかみさんに事情を説明した。
小さい頃からここでお世話になっているので、ほとんど親代わりのようなものだった。想像した通り、おかみさんはまず私を心配してくれた。
「あらまあ、妙な呪いにかかっちまったもんだね。休むのはかまわないよ。リリーやネクシアをそろそろ舞台に立たせてもいい頃合いだし。前々から、あんたは働きすぎだと思ってたんだ」
そんな風にすんなりと1週間のお休みをもらうことができ、私は部屋に戻ってから、ふと窓の外を眺めた。
朝のきらきらとした光に包まれた街。汽車がもうもうと煙を上げている。
これまでできなかったことをやってみる、いい機会じゃないかしら。
そう思い立ち、お気に入りのバッグにいつもより多めにお金を入れ、靴を丈夫でしっかりとしたものに履き替える。おかみさんに一言言ってから、私は酒場を飛び出した。
「どこに行くんですか、アンテさん」
謎の花がそう話しかけてきたのは、ルーフ丘陵行きの汽車に乗ってからのことだった。見えないだろうに(目があるのかすらわからないが)、私の足の動き、振動でそれを察知したらしい。
「見晴らしのいい観光地。子供の頃行ったきりだけどね、ちょうどいいかなって」
「ふうん。人間はいっかしょに根を張ろうとしないんですね」
「むしろあんたみたいに、1箇所に留まるってことが苦手なのよ。多分、大体の人は……なんで私の体なんかに根付いちゃったの?」
「よくわかりません。でも私の種を運んだ鳥は、ここがいちばん居心地がいいと考えたんでしょう。
温かくて、きれいな声が聞けて、いい匂いがするから」
どういう仕組みなんだろう。呪いの鳥がそんなことをするなら、むしろ思いやっているような、祝福を与えているようなそんな気さえしてくる。
「でも、居心地がいいって言ったって、1週間きりの命なのよね」
「きり? 最後に咲くことができるのがいちばん大事なんです。私たちは、それが嬉しいんです」
分かるような、分からないような、変な気持ちだ。花とのぽつぽつとしたおしゃべりをかわしていると、じきに汽車は目的地へと辿り着いた。
幼少の記憶と全く同じ光景が私を出迎えた。ルーフ丘陵は、大きな湖に、見渡す限り金色の草原が生い茂り、まばらな家屋や宿がある以外は何もないところだった。
それに、放牧された牛や羊の点々が呑気に草を食んでいる。私は柵の上に腰掛け、暫くの間何もせず、その光景を目に焼き付けていた。
「アンテさん、アンテさん」
「……何?」
「すごくきれいなところだと思いますが、私はそろそろ別の色が見たいです」
この花、一体何のつもりなんだろう。呆れながら聞き返すと、花は「色が偏ってしまうんです」と呟いた。
「偏るって……つまり、あんたの花の色が金色になるってこと?」
「はい。アンテさんだって、今までに見たことがないくらい、とびっきりきれいな花を見てみたいでしょう?
そうしたら、別の色を浴びさせたほうが、私はもっともっと、きれいになりますよ」
決して花の言葉に乗せられたわけではなかったが、また未練だとめそめそとされるのは嫌だった。私は踵を返し、別の駅に向かう汽車に乗り込んだ。
それから、どうせ1週間暇なので、この花が求めるような色を探しに出かけることにした。
ルーフ丘陵を出た後は、たっぷりとした緑で名高いクロエィン渓谷に向かい、遅くなってきたらその地の宿に泊まり、翌朝は海に出かけた。
朦々とした、綿が広がるような白い海だ。低い位置に雲があるので、どこまでも白が広がっていた。
夜の黒。赤水晶が瞬く洞窟。不夜城として名高い、魔電灯が輝く桃色の街。
清涼で緻密に張り巡らされた青の寺院。それぞれに濃さと色合いが違う、紫色の垂れ幕が覆う街。
それから、銀色のガラスばかりでできたレストランの中。これまで、それほど目に留めてこなかったが、驚くほど色に満ちているものだなと気付かされる毎日だった。
1夜明かすごとに花は蕾を大きく膨らませ始めた。同時に、甲高い声が重たげに、静かになっていった。6日目の朝はほとんど眠たげだった。
最初はさっさと取ってしまいたかったのに、今では花との小旅行は名残惜しかった。
純粋でものを知らない花とおしゃべりをしていると、自分でも気づかなかったことにどんどん思い当たるようになっていったのだ。
できることなら、こっそりと呪医に診てもらって、なんとか花を枯らさずに引き剥がせないかと考えたこともあった。
でも、それじゃあいけない。花は最後に咲くことを大事にしているから。無理に外部から延命することは、彼女が望んだことではないのだろう。
朝が終わり、昼になり、それから夜に差し掛かる。花との旅路も明日で終わりを迎えることだろう。
「今更だけど……最後まで”花”って呼ぶのは味気ないわ」
ベッドに寝転んでそうつぶやくと、一拍も二拍も置いた後、花は聞き返してきた。
「そうですか、どうして?」
「人間は名前をつけることで愛着を持って、その人だけになれる。
それに、その人のことをずっと覚えていられるようになるから。名前をつけてもいい?」
「ひとって……ううん、アンテさんって、やっぱりふしぎですねぇ」
「あんたほどじゃないわよ。イーリ」
花、イーリは綻び始めた蕾を揺らして、少し笑ったようだった。私はイーリを潰さないよう、ゆったりとした寝間着に着替え、その後も何度か言葉をかわし、それから眠りについた。
1週間。7日目の朝、言った通りに彼女は大きく花開いていた。確かに、なんにも嘘なんてついてはいなかった。
もう喋りたくても、喋れない状態で、動きも、笑いもしなかったが。
でも、イーリの姿は、この目にしっかりと焼きつけられた。丘陵よりも、渓谷よりも、どんな街のどんな色よりも美しいその花びらの形、その姿を。
この世界の、誰一人として知らないその美しさを、私だけがずっと覚えていた。

コメントを残す