底無

その塔は地下への大口だと亡き祖父が言っていた。魂に罪過あるものの虚、地罰を求めるものが惹かれるものだと。

厳密には地にそそり立つものでなく、地の底へとずっと続く、延々と続く、縦の橋のようなものであるらしい。誰がそうして開けたのか、建てたものであるのかもわからない。私の住む街、常に変化する砂丘の向こう側からその先端は見えていた。
「塔は……底には何があるの?」
幼い頃の私が問いかけると、「お前、決してあの塔に近寄ってはならん」と祖父は強く睨めつけるばかりだった。
ああ、あの時、何があるかだけでも言ってくれればよかったのに。
誰も知らないのだとしても、嘘を言い含めてさえくれれば。それから打たれでもすれば、私は二度と塔に関わらずに済んだだろう。
私はずっとこの階段を降りている。ぎちぎちと詰まった巨大な螺旋階段で、底を覗き込むことは叶わない。
人生の半分を捧げ、もう半分を彼方に追いやって、最初の一歩目、どうしてここへ足を踏み入れようとしたかすら思い出せない。
もはや、遠い過去のことだ。ここでは時間の感覚が狂う。一歩踏みしめるごと、赤子の時分のことや、未来にあったかもしれないことが脳裏に浮かぶ。太陽と月から見放され、どんよりと闇が覆い被さった、黒黒とした石段をただ降りるほかなくなっている。
体が悲鳴を上げながら、心ばかりは“降りきって何があるのかを見てみたい”という欲に取り憑かれている。
飢えも、渇きも、疲れもその欲望の前には霞んでしまう。実際にここに近付こうとした時点で、おそらく私は私でないものになっていた。冷静に残った一欠片の意識だけが、そう気づいている。
靴と身につけた靴下がかつて破け去っていき、足裏が剥がれ、骨の痛みを感じ始め、それがもう下半身も、上半身も感覚がなくなってきて。
足を止めず、夢を見ることもあった。眠る私は愛しい恋人のことを見た。もう会えない、美しい……のことを。
私たちは引き裂かれた。彼女は親の過ちにより、よほど性根の卑しい、ダルプタという金貸しのもとに嫁ぐことになった。
レースを編みながらあの子は泣いていた。とびきり磨き上げられた真珠のように、大事にされ続けたあの子には耐え難い仕打ちであっただろう。
私は必ず救い出すと決意し、入念に計画を練り、それから……。
なぜ思い出せないのか。この階段を降りていると、この記憶すら手放しそうになる。あの子の亜麻色の髪、青々と繁る葉の色の瞳、その輝き、声や話し方も……決して忘れたくはないのに。
私はあの子を置き去りにしたわけではない。それだけは違う。救い出せたと思う。だのになぜ、この体はそのことを思うとこんなにも重く、苦しく、千の針を抱えているような気になるのか。
忘れたくない──苦しい思い出だ。なぜ苦しい? あの子の存在は私にとって蜜よりもずっと甘かった。
上へ引き返して様子を見に行くというのは、私の頭には思い浮かばなかった。冷静な部分がもう遅いと告げる。ここへ降りてきたからには、もはや進む他ないのだと。
ぼうっと思考を巡らせつつ、落ちていく。壁に手をつき、麻痺した体を支えながら。下からの空気が更に冷たくなってきている。
もうじきなのだろうか。そのことを思うと心もとない。これが夢であって、まだ塔に踏み入れようとしている前であったら。喜ぶべきか、悲しむべきか。
少なくともまだ正気であることを証明するために、私は私のことを思い返した。私は……。
そこで、私の血の繋がった家族、居たはずの両親、それから祖父のことがあやふやになっていることに気がつく。
暮らしに不自由はしなかったと思う。だがあの顔、髪型、身長、声の調子……彼らのことがどうにも思い出せない。分かるのはあの子のことと、塔のことばかりだ。
「あの塔は大口で──恵みで──罰で──違う」
冷や汗がどっと出て、私は口を閉ざす。反響した己の声は、わんわんと尾を引いて上へと登って消えていく。
頭を振り、息をついて考えないようにした。もう少しだと私は思う。それは直感だったのか、大口の囁きであったのか。
底には何があるのだろう。更に穴が開けていて、何かが吹き出していたら。亡者と行き合ったら。あるいは……この世のものとは思えない美しいものがあったなら。
罰の正体は何なのだろう。神が裁いてくれるとでもいうのか。一番恐れていて同時に腑に落ちるのは、“何もない”ということだ。
何にしても、引き返すということはできない。この体の状態で、食べ物も飲み物もなく、ここから登っていくことは不可能だ。であるから、そこが本来の終点なのだと私は理解していた。
高さのばらばらになってきた段を降りていくと、ついにそこに辿り着いた。その瞬間、足はどうっと倒れ、私は横になりながらその空間を見上げた。
洞窟をめちゃくちゃに掘ったような、これまでの精巧な建築が嘘のような空間だった。
暗闇の中で、ぼんやりと光るものがある。水たまり……いや、泉だ。それを見ると急に渇きを取り戻して、私は這うようにしてそちらに近づいていく。
半ば顔を洗うようにして、口をつけ、がふがふと飲み干していく。清涼なものが喉を通り、久々の癒やしを得る。
ひとしきり飲みきったあと、私は姿勢を変えた。なんだ。この塔は、近づいてはいけないなどと脅すようなことは何もなかったのではないか。ただ底には水が、泉があるだけ。
再び口をつけようと屈みこんだ私は、動きを止める。その水面に映った顔を見て、ぼんやりと照らされたそこにダルプタの顔を見て。
顔を触る。指を見る。体を見下ろして、それから思い出す。
「は、はは……」
あの子は、いってしまった。自らの手で、自らの人生を終えた。だから、助け出そうとした私はそれを見て、この男に罰を与えようと思った。
私の人生と引き替えにしてでも、必ずや苦しめ苛んで、もはや何一つ救いのない、絶望の中に陥れてやろうと。
私の口から──正確にはダルプタの口から悲鳴が湧き続ける。奪ったダルプタの体が拒否を示して、見る見るうちにみっともなく泣きじゃくる。
「いかれた小僧め! 違う、そんなつもりじゃなかった! 俺はあの子を死に追いやるつもりなんてなかったんだ!」
お前があの家に余計な真似さえしなければ、あの子は今も生きていたんだ。生きて、私とともに逃げ延びていたはずだ。
こんな砂漠のただ中でなくて、もっと過ごしやすい、海の見える彼方に住むつもりだった。
それをこの男が何もかもを。
でも、いい。ここまで来たのなら、ダルプタはもはや地上へ戻ることなどできない。足は癒えない。助けもこない、その間の何ヶ月か、何年か、何百年かを苦痛に苛まれながら過ごすことになるのだ。
孤独。永劫にも思えるその苦痛によって。私の考えを感じ取ったのか、ダルプタはもがいて、心臓のあたりを握り込めるようにする。
まるで私を逃すまいとするように。しかし、その冷静なひとかけらの私は、あの子の姿を思い浮かべながら、この世のどこからもいなくなっていた。

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